大学生時代に経験した、教育実習に関するお話です。
この経験から、いじめは無くなることはないと確信を持つことができるとともに、いじめを行う側の心理を考えます。
いじめは無くならない
大学4年生の時、母校に依頼して教育実習に行きました。
お世話になる教員の皆様にご挨拶。多くの教師はお疲れ顔です。
今年も教育実習の季節が来たか。といった感じでしょうか。
担当の教員は、癖のある人のようで、「京大に通っている人ってさ、勉強ばかりしてきたから、人の気持ちとかわからん人も多いからなぁ。」
はじめにそんな言葉をかけられたのを覚えています。
その担当教師と仲の良い体育教師が私に強い嫌悪感を示し、教育実習期間の3週間イヤミを言われ続けました。
「声が小さいね。職員室に入ってくるときは、元気よく失礼します!って挨拶しなあかんやろ。社会の常識やで。」
「声が大きいねん。職員室に響いとるやないか!逆の意味で失礼しますや!」
「人生経験が足りないから、これから苦労すると思うわ。」
「君の授業計画は面白くないね。ほかの子はめっちゃおもろいのに。やっぱり京大って変なんやなぁ。」
微妙な言い回しは違えど、ぱっと思い出すのでこんな感じです。
当時20そこらの年齢でしたので、30代とか40代の大人に(何もこちらが悪いことをしていないのに)こんなことを言われたら、恐怖でしかありません。
ううん、何にもしてない(笑) 僕の存在がダメだったのかも(笑)
教師がこんな嫌がらせをしてくるんです。
大人の世界でいじめが無くならないのならば、子どもの世界でもなくなるわけがない。
いじめが無くならないのであれば、自分がいじめに対してどのように向き合うかを考えなくてはなりません。
それでは、いじめる側の心理について、以下に考察を書きます。
【いじめる側の心理】いじめは何から始まるか
私はいじめに対しては、加害者・被害者という言葉は使いませんが、
いじめる側・いじめられる側どちらが悪いかという論をたまに見かけます。
私の意見としては、悪いのは100%いじめる側です。
いかなる理由があろうとも、いじめることを正当化することはできません。
いじめられる側も悪いという意見を否定するつもりはありませんが、
仮に当事者にいじめを受ける原因があったとしても、いじめてよい人は存在しません。
私の教育論はさておき、いじめる側、つまり意地悪を行う人の心理を考えると、以下のような点が挙げられるのではないでしょうか。
いじめの始まり①:コンプレックス
「京大に通っている人ってさ、勉強ばかりしてきたから、人の気持ちとかわからん人も多いからなぁ。」
と教師から発せられた言葉は、ある種のコンプレックスが含まれており、自己防衛の気持ちを感じました。
その教師は、「私は君みたいに賢くないけどさー、」という言葉をよく会話の初めに付けていました。
私は彼女のことをバカにしていませんし、教師として積み重ねてこられた経験をもっと教えてほしいと思っていましたが、彼女のプライドによって、自己防衛から相手を受け付けないようになっていたのでしょう。
そのような行動を繰り返すと、いつしかそれが人格になってしまい、年齢を重ねるごとに自分を変えるのが難しくなります。
いじめの始まり②:視野の狭さ
視野の狭さ。これも当てはまるでしょう。
「批判をすること」を考えると、少なくとも2種類が考えられます。
・いくつかの選択肢を理解し、自分が支持するものに賛同する。
そして、支持できないものは賛同しない、もしくは批判の対象とする
・自分が支持する意見以外は受け入れられないため、批判する
後者の場合を、「視野が狭い」例のひとつと考えましょう。
視野が狭いと、他の意見を受け入れられない、つまり、価値観の違う人の考え方や相手自体も受け入れられないことにも繋がります。
嫌がらせをしてきた教師は、私がどんな意見を言おうとも否定から入り、「君の授業案…全然面白くないし、生徒たち喜ばへんと思うで」などと評価されることもありました。
それがね、大ウケ・大盛り上がりだったよ(笑)
なに悲しそうにしてるんや!いじめんといて!(笑)
いじめの始まり③:心の弱さ
①、②と共通する部分もあるでしょう。自分が傷つけられないように自己防衛で攻撃してしまう。誰かを蔑むことによって、自己の優位性を感じるのは心の弱い証拠でしょう。
A barking dog seldom bites. 「弱い犬ほどよく吠える」
こんな格言がありますが、強い人(精神的に自立し、他人を尊重する人と考えます)は、他人をいじめるようなことはしません。
心の弱さが攻撃性となって表れるのです。
いじめの始まり④:安心感を得たい
多数派でいたいとも言い換えられるでしょうか。
先行きの見えない、不安な人生の中で、少しでも安心感を得たい。
そんな時に、周囲の中で弱そうな人間を攻撃すれば、自分が優位な立場にいることを自覚することができる。
そんなところで安心感を得ないと、自分を保てないのかもしれません。
いじめの始まり⑤:恐怖心
教育実習という制度が始まると、普段は学校にいない大学生が校内で活動します。
つまり、異質なものが入り込んでくるとも言えるでしょう。
公立中学校に現れた、京都大学生という存在。
(いじめてきた教師の視点で)これまで自分のやってきたことや、積み重ねてきたものを一瞬で追い抜かされそうな、もしくは、否定されそうな、何らかの恐怖心を抱いたのではないかと考えます。
「私はそんなに賢くないけどさぁ」という話はじめの言葉からも、教師側が一方的に何かを意識していたと感じますが、それは①で記載したコンプレックスに加えて、恐怖心も存在していたのではないでしょうか。
いじめと向き合う
このようにして考えてみると、いじめられている側より、いじめている側の方が弱い人間なのかもしれません。
もしも、いじめられる側になってしまったときは、上記のようなことを認識しつつ、毅然とした態度で向き合おうと心に決めています。
向き合うといっても、けんかをするのではありません。
・相手にしないこと
・いじめられている自分を否定しないこと
・自分はかけがえのない存在であり、生きているだけで価値があるということ。
この3つは忘れず、自分のペースを乱す相手とは、できるだけ距離を取るのが良いでしょう。
とはいえ、距離を取りたくても、担当教員であれば、距離を取ってばかりではいられませんが・・・。
私の場合は、多くの先生方に授業アドバイスを求めていたので、味方してくれるような先生も徐々に出てきて、あからさまに嫌がらせを受ける回数が減ったので、ラッキーでした。
以上が、私が教育実習の嫌がらせから考えた、いじめる側の心理5選です。
教育実習のいじめの体験については、もう1本記事を書いています。