子どもの頃は、「夢を持ちなさい」と大人たちに言われました。
君たちには無限の可能性があるから、いっぱい勉強して、様々なことに挑戦して、自立した大人を目指してほしいと。
子どもたちにとっては、”大人たちがいう言葉あるある”の一つに過ぎず、大人の言葉は子どもたちには響かない。。。
可能性があることは当たり前で、それを疑わないからでしょう。
ただ、無限の可能性を持ちつつも、「子どもであるから」という理由で制限がかかることも多く、今は親が(家族が、先生が、周りの大人たちが)許してくれないけれども、大人になったらこんなことに挑戦してみたい、と思いながら成長していきます。
気が付けば夢を見なくなっていた
時間の流れは早く残酷なもので、気が付けば大人になり、その過程で、夢をあきらめた多くの大人たちを見ることになります。
そして、自分もそうなるのかと薄々感づいてしまう。。。
自分がこれから働き続ける姿を想像できないまま、できているのかもわからない企業分析・自己分析をして就職活動に臨み、「これでいいのか」と疑問に思いながら働き、いつしか疑問に思うことすらも忘れてしまう。
少なくとも私はそうでした。
会社に行って働いて残業して帰るだけの生活に嫌気がさすものの、現状を打破する気力が残っていない。
疲れて寝るだけの日々は、まるで沼にはまっていくことに気が付きながらも現状を受け入れるしかない、アリジゴクにハマる昆虫のようでした。
抵抗する気力もなくなった私は、会社にしがみつくことを正当化し、いつしか親戚の子どもたちの前で「みんなには無限の可能性がある、いろんなことに挑戦しろよ」と語ってしまうのかもしれない。。。
そんな人生でいいのでしょうか。
それは、私が思い描いていた「幸せ」な人生なのでしょうか。
面白くもないことに自分の人生をささげることは美徳なのでしょうか。
私にはそうは思えません。ですが、会社員として働いているときは、自ら辞める決断はできませんでした。
上司からのパワハラを受け、「この野郎覚えとけよ」と内心穏やかでない状態で仕事をしていましたが、結局過度な体力的負担&精神的不調のダブルパンチで体調を崩し、辞めざるを得なくなった…
この一連のきっかけがあったからです。
精神をやられて辞めざるを得ない状況になってしまったからこそ、今こうして自分の意見を述べることができているので、ある意味あの上司に感謝すべきなのかもしれません(将来的に辞めてよかったと断言できるようになりたいです)。
人生のゴール
人生100年時代、目指すべきゴールは何だろうか。
これは京都大学へ入学したころから考えていました。
自由な学風にあこがれ入学を希望したものの、たいして賢くもなかった私は、1日10時間以上の勉強を続けてやっと入ることができました。
しかしながら、大学に入って気が付きました。「京都大学に合格すること」が私のゴールになっていたと。自分はこれから何を目指して生きるのだろうと。
正直明確な答えは見つかっていませんが、少なくとも「人の役に立つこと」がひとつ当てはまるのではないかと考えています。
教師を目指したのも、子どもたちの可能性を広げることのできる職業だと学生時代に身をもって感じたからであり、職場環境がブラックでも乗り越えられる自信もありました(少なくとも興味のなかった不動産業界よりは…笑)。
民間企業に就職して、「人の役に立つ」ことの幅広さを知ることができましたが、人の役に立つには、まずは自分自身に余裕がないといけません。
心の余裕には安定した衣食住が必要で、きれいごと抜きに、結局お金が必要になります。
人の役に立つために、自己の経済的・体力的・精神的安定が必要で、その安定のためにお金を稼ぐ必要があるならば、まずは最低限の生活費を稼ぐ体制を作り上げなければいけません。
その過程をブログなどに残していくことで、誰かの役に立つことがあれば、幸せです。
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